2008年4月 9日

『ちびくろ・さんぼ』が好きですか?

 好きだ好きだと言いながら、どうして著者をいじめるのだろうか?
 と思ってしまうのが、もうすぐ発売になる『ちびくろさんぼ 3』
http://www.zuiunsya.com/n-book.html

 この出版のニュースを聞いた時には唖然としてしまったのだけれど、ヘレン・バナマン Helen Bannerman* が描いた10冊の絵本の内、サンボという名の少年が出てくるのは2冊だけで、これは既に岩波版で翻訳・出版され、上記「3」の版元の瑞雲舎から『ちびくろ・さんぼ』『ちびくろ・さんぼ2』として復刻されてもいる。(ただし、岩波版『ちびくろ・さんぼ』はテキストはオリジナルだがイラストはアメリカで別人のものに差し替えられた異版。「2」は、テキストはオリジナルだが、イラストは前作のアメリカでの異版のイラストに似せて日本で作られた模倣版。)
 オリジナルのテキストとイラストの翻訳は、径書房からのみ出版。
http://www.komichi.co.jp/bd/4-7705-0173-0.html

* 慣習的には「ヘレン・バンナーマン」で流通しているのだけれど、老生としては気持ち悪いので「バナマン」か、せいぜい「バナーマン」としか書けない。

 で、「ちびくろ・さんぼ 3」なのだけれど、これの原作は、存在しない。版元のサイトも含めて、この本の書誌事項として現在ネット上で検索できる範囲では、「ヘレン・バンナーマン」の「原作」とあるもの、「原案」とあるもの、「ヘレン・バンナーマン」の表記が一切ないものの3種類があり、原作の存在しない作品を出版するこの企画の混乱ぶりを示している。

 因みに、既刊(既訳)の『サンボ』の原題は、"The Story of Little Black Sambo"(1899)、 "The Story of Sambo and the Twins"(1936)。
 バナマンの他の絵本作品の中では、肌が黒いキャラクターが出てくるものがあと4冊あるが、それぞれの主人公の内3人は女の子で、唯一の男の子の主人公の名前もサンボではない。発表順に挙げると、"The Story of Little Black Mingo"(1901)、"The Story of Little Black Quibba"(1902)、"The Story of Little Black Quasha"(1908)、"The Story of Little Black Bobtail"(1909)。
 話の内容としても、上記版元サイトの紹介記事にあるストーリーはこの4作品と重ならない。唯一、小道具として「本」が出てくるのが "The Story of Little Black Quasha" だが、ストーリー展開はまったく異なっているようだ。(「ようだ」としか書けないのは、「3」の全文をまだ見ていないからだけれども、オンラインで見ることができる簡単な紹介文の範囲でもまったく違う話だと思われる。)

 瑞雲舎が岩波版を復刻したことは、支持はしないけれども、それなりに理屈は立っていたとは思う。少なくとも、読者にとって納得がいかない形で軒並み絶版になり、読者から復刻が「待望」されていたという状況はあったのだから。けれども、「3」は一体誰が待望したのだろうか? 60年ほど前に亡くなった著者の存在しない作品を、なぜ、誰が、「待望」するのだろうか?
 著作権…と言っても、経済権の話ではなく人格権のお話として、随分と無惨な話だと思うほかない。

 バナマンというのはつくづく不運な著者だなと思わざるをえないのは、彼女の創作したキャラが、特にアメリカ合衆国では、彼女の描いたイラストとしてではなく異版・海賊版の絵柄で大量に流通したという部分においてなのだが、アメリカではまだオリジナル版も流通していた。一方日本では、上記の径書房版が出るまで、アメリカ産を中心とした異版・海賊版しかなかったし、むしろその海賊版をオリジナルとして好んできた。これだけでも、バナマンに対しては随分と失礼な話だと思うのだが、そこへ持ってきて、今度は存在しない続々編が日本で登場してこようとしている。しかも、イラストは従前の2作品と同じ、アメリカでの海賊版を模したものだ。これは一体どういう文化状況なのだろうか? この出版企画のどこに、著者への Respect を見いだせるのだろうか。

 この作品にとびつく読者がいるとすれば、彼/彼女はヘレン・バナマンが「好き」なのだろうか?
 この存在しなかった作品を出版する瑞雲舎は、ヘレン・バナマンが「好き」なのだろうか?
 老生には、彼らがバナマンをいじめているようにしか見えない。どうして、こんな侮辱行為を平気でできるのだろうか?

 バナマンが、その作品故に「差別」の汚名をうけたことについては、いくつもの「不運」はあるにしても、近代化・脱植民地化という状況の中を生きた社会的存在としては引き受けなければならない道理があったとも思うし、その意味では同情しない。 1972年の時点で、イギリスのジャネット・ヒルがバナマンの "The Story of Little Black ~"諸作品に対して、"They has no place in multi-racial society"**と述べたのは、極めて正しい評言だったと老生も思う。

** Janet Hill, "Oh! Please Mr, Tiger", The Times Literary Supplement, Nov. 3, 1972.

 これ↑は、人は、自分が述べたこと、書いたこと、行動したことと、その結果の一部について責任を負わねばならないと老生が考えるからだ。そして同様に、人は、自分が言わなかったこと、書かなかったこと、行動しなかったことについての責任を負わされてはならないのだ、とも考える。(「やるべきことをやらない責任」というのは、話がややこしくなるのでちょっと横へ置いておく) 自分のイラストではない多くの異版「さんぼ」について、ヘレン・バナマンは責任を負う必要がないのと同様に、テキストもキャラも自分のものではない作品に、自作の代表的なキャラの名前をつけられる理由はないのだ。

 「ちびくろ・さんぼ3」の出版が異様なのは、正・続編の復刻を待望する声に応えた出版社が(復刻自体はある種のリスクをとっている行為でもあり、非難するつもりはない。。。ただし、復刻の元版が海賊版であったという点では支持はしないし批判もするが)、原著者の人格権を大きく踏みにじってまで続々編を創出していることだ。正続編の復刻は、たとえ海賊版であっても「私たちは(多くの人が)これが好きなんです」という点で、まだ「出版の志」として成り立つ余地があった。だが「3」は、捏造でしかない。

 瑞雲舎ってのは、結局、ヘレン・バナマンとその作品を愛していたわけでもなく、ニッチな(他社が手を出すのをためらっている)分野にあえて手を出して儲けたかっただけだったのだね。。。もちろん、「金儲け主義」自体を批判しているわけではない。ただ著者へのRespectの欠如が、老生にはひどく無惨に思えるのだ。

 因みに、ヘレン・バナマンは、生年月日:1862年2月25日、没年月日:1946年10月13日。
 すみません、図書館員ですが、ウィキへリンクしときます。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%B3

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2007年3月14日

月光仮面のおじさんは

 元MOPSの鈴木ヒロミツさんの訃報。
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20070314i312.htm?from=main3

 それほど年齢の離れていない鈴木さんに合掌(-人-)。

 俳優・タレントだと思ってた人も多いのだろうけれど、老生の世代としては「音楽性の高いGSの人」です。
 1971年の 「月光仮面」はある種コミック・ソングですけど、1971年の時点のTVの歌謡番組で、「月光仮面」のテーマソングの歌詞をいただいたスロー・ブルースを堂々と何度も演奏してたわけです。なにしろB.B.キングの初来日が1972年で、その前の年にTVの歌謡番組で堂々とスロー・ブルースですよ。快挙というか怪挙と言うか、とにかく凄いのでありますよ。(まぁ、誰が凄いかと言うと、ボーカルをとって、ギターも弾き、アレンジもしていた星勝さんの方が功績大なのですけれど。)
 1971年と言えば、憂歌団の最初の形(内田さんと木村さんのデュオ)がなんとか形になっていたとは言え、二人ともまだ高校生でまだ音楽シーンに上ってきてないし(この頃の音は老生も知りません)、ウェスト・ロード・ブルース・バンドにしても1972年の結成ですから。
 とは言え、うあ、36年前か。

 ところで、この「月光仮面」のテーマ、作詞は川内康範さんで、MOPSバージョンも歌詞はそのまま使ってて、曲だけ112のブルース・パターンで演奏してるわけですが、これ著作権的にはどういう処理になってたんでしょうねぇ、と今更と言うか、今だから不思議な気がして来ました。
 なにしろ川内康範さんと言えば、「おふくろさん」に語りを入れたのはけしからんという同一性保持権の問題で渦中の人ですから、ちょっとひっかかってしまったわけです。
 楽曲の同一性保持権というのは、歌詞は歌詞、曲は曲と別々にあるものだったのでしょうか。MOPS版「月光仮面」の場合、詞の著作者にオリジナルとは別の曲をつけて歌わせて欲しいと申し出て(有料であれ無料であれ)作詞家の許諾があれば、別の曲で唄ってよいものだったのでしょうか?この場合、作曲家の方の許諾も必要だったのでしょうか。
 このあたり不勉強でわかりませんが、なんでひっかかったかと言うと、1970年代の半ばにレコード・デビューをした上田正樹&サウス・トゥ・サウスが、レコード・デビュー前のライブで「道頓堀行進曲」をラグ・タイム風の16小節のパターンにのせて歌ってたのが、著作権の関係でレコードにできなかったという話を聞いていたのを思い出して、ちょっとこだわってしまったわけです。アコースティック・セットの方で、有山さんの生ギターでキー坊が唄うバージョンです。あれはあれで好きだったのですよ。どこかに音源残ってないかな。残ってたら、なんとか著作権処理をして公表してほしいのですよ。
 結局のところ、著作権の理屈がどうこうと言うより、いい音はやはり聴きたいというそれだけなのですけれどね。それがRespectということじゃないでしょうか。

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2006年3月27日

「貸与権を有した」図書館資料?

 少し古い話で昨年秋のことになるのですが、「社会教育調査(図書館調査用)」というアンケートが文部科学省より送られてきました。ご存知のように3年周期で行われている統計調査です。

 その記入用の「手引」を流し読みしていたら、いきなり頭の中がループし始めました。何がおこったのかわからず、少し戻ってもう一度読み返したらまたループ。???三度読み返してどこで脳内ループに入ったのかやっとわかりました。
  「事業実施状況-図書等の貸出-視聴覚資料の貸出数」の回答記入についての説明が以下のようになっていたのでありました。

視聴覚資料の貸出数
 貸出用として貸与権を有した視聴覚資料の貸出数。

 なんとも凄い記述です。
 「視聴覚資料」の内、ビデオ・DVD等の「映画の著作物」の図書館での貸出については、「貸与権」ではなく「頒布権」が適用されますし、また、「頒布権」を分与されてではなく、「許諾」を得て貸出可能になっているのだ、という関係になるので、まったく間違っています。
 また、ミュージックCD等の他の視聴覚資料についても「貸与権を有して」貸出をしているわけではなく、図書館は貸与権(←著者が持っている)の権利制限の対象になっているために、著者からの許諾がなくても貸出できるという関係です。そもそも図書館が所蔵資料の貸出等の活用をするにあたって、「貸与権」「頒布権」に限らず著作権法上の「○○権」を「有する」ことは普通はない話(その図書館自身が著作者である場合は別ですが)なので、著作権法の基本的構造すらわかっていない人がこの解説を書いているということになります。

 ただ老生が何より怖ろしかったのは、このアンケート調査には老生もこれまで何度か回答しているのですが、これまでこんな解説にはまったく気づいてはいなかったということ。あわててこの「手引」の冒頭を確認すると、この設問が今回から新設されたものであることがわかり、ほっとした次第。

 あえてこの設問に解説を加えるとすれば「貸出用として許諾を得た視聴覚資料の貸出数」が適切なところでしょうが、そもそも解説自体が必要とも言えない設問ですね。なにやら「雉も鳴かずば…」という感慨を得ました。

 著作権というものも一般にはわかりにくいものであるのが現状ですし、著作者自身だって変な(あり得ない)権利を主張する事例があるのも事実ですし、更には図書館員だって著作権の認識の怪しい事例は少なくないので、あまり居丈高に、鬼の首でも取ったように言うのがむしろ恥ずかしいお話ではあります。
 とは言え、こうした「わざわざ指摘するのもなんだかなー」な事例がそこここに転がっていて、いちいち指摘するのも消耗的だが、かと言って放置しているものだからさらに淀みが深くなっていっているというのが図書館における著作権問題というシロモノであるような気がします。やはり、他を言うより、自分の足下の淀みからきれいにして行かなくてはいけませんね。

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2005年11月15日

公貸権の経済学?

 日本文藝家協会等5団体による「図書館の今後についての共同声明」( 平成17年11月8日)については、概ね作家に対する不評が図書館系ブログで語られていました。ここに至る一連の状況については、Library & Copyrightさんの 「文芸5団体の公貸権関連声明(長くてすみません)」(11月9日付)が詳しいので勉強させて貰ったところです。

 ブログでの一連の発言を読んでいて、老生は自分がおかしいのかなと戸惑ってしまったのですが、老生は「ああ、やっと出たか。」という感興しか持たなかったのです。少なくとも「図書館問題」「複本問題」という問題意識の建て方をしてきた立場の人たちなのだからそれが自然なので今更という気持ちであり、またこういうものが出るという話は随分以前から聞かされていたような記憶があります。

 もっとも公貸権そのものについても、老生はあまり危機感が持てないでいます。少なくとも、作家さん達が経済的利益を確保するために公貸権を主張しているのなら、そしてこういう法改正をするとこうなるという現実化のシミュレーションがちゃんと出来ているなら、それは図書館にとっても不利にはならない_筈だ_という認識があるものですから。(「_筈だ_」というところが怖い所なのですが、それは後述。)キーとなるのは、公貸権料の財源がどうなって分配の仕組みがどうであれば作家にとっての実質利益になるのかということです。(公貸権料は販売補償料ではなく、必ずしも貸出や閲覧の比率に完全に応じて個々の作家に分配されるものではないことはヨーロッパなどの先行事例で明らかですが、ここでは一応「補償料として考える」という作家さん達の意識に即して考えれば、というシミュレーションの話です。)

 図書館側から見ると、公貸権料の財源が国で保障されるということがなければ(現今の状況ではまずそうはならない)、現今の状況では地方自治体は、「従来の図書費の範囲で賄いなさいね」ということにしかならないだろう、そうなると実質的に購入できるタイトル数が目減りする、大変だ! ということになるのですが、でもそうなると、作家にとっても全然潤わないことになるわけです。

 つまり、これまで図書費が1000万円だったA市立図書館では、公貸権が法で規定されたとしても図書購入に関わる費用をそれに準じて上積みしてもらえるとは思えないので、予算要求で公貸権料がどうとか言っても無視されて「とにかく図書購入に関する費用は去年と同じ1000万!」となるだろうし、別の要素になりますが毎年マイナス・シーリングが普通のご時世ですから「今年は900万ね」とあっさり言われる可能性だって充分ある。

 でもそれは、作家さん達の思惑とは違うのですね。作家さんは、例えば公貸権料が本の定価のn割(*)と設定されたとして、図書館から作家さん・出版者に流れる金が従来の1.n倍(*)になる筈と目論んでいるわけですから。ましてや、公貸権料を設定するなら、何らかの事務局をつくって、図書館での利用のサンプルをとってどの作家にどう分配するのかという算定をして実際に分配作業をするという事務が必要なわけで、その事務費だけでもバカにならないので、上記のA市立図書館のような場合には、従来ならA市立図書館が支払う1000万円がそのまま作家(出版者)に渡っていたのが、公貸権が施行されたために作家(出版者)に渡る金が「1000万マイナス公貸権処理事務局費」ということになるので、作家さんたちだって収入が目減りすることになってしまう。

(*)とりあえず、ここでは公貸権料は10割未満と想定していますので、1.n倍でよいかな、と。

 だから、作家さん達がほんとに「補償料」のために公貸権を主張しているのなら、補償料=公貸権料の財源をちゃんと確保しつつ公貸権を施行させるという活動が必要になる、というのは少し冷静になっていればわかる話です。そしてその場合は、図書館側としての目減りはない_筈_なのです。

 ただ、この解釈で怖いことが2点あります。

 一つは、一旦公貸権料の確保が上積み(例えば国庫負担とか)で設定され、図書館も作家さんの双方が納得で公貸権が施行された後になって、国家財政の都合でそれを地方自治体に振り替えるとかという話になってしかも(国が放棄するような経済状況なので)地方自治体もそれを肩代わりできない場合。これは上記のA市立図書館の状況になり、作家にとっても、図書館にとっても不幸な状況。

 もう一つは、作家さん達が経済権(補償料)の確保よりも、「とにかく図書館の活動を抑制したい」という目的で動いている場合(公貸権で「複本問題」だけを抑制するのは無理ですから)。実際、作家さんにとっての利益の出る公貸権料率って大分高くないといけないと思うのです。ところが、当たり前の話ですが、料率が高くなると事実上は購入自体の抑制機能しか持たないことになります。例えば、昨年の法改正では今年の1月から実施されるはずだったのが未だに当事者間で調整中になっているレンタル・ブック(本に関する貸与権による有料貸出)の場合、JUGEM の時代の Copy & Copyright Diary(2005.1.7.)さんから再引用すると

管理センターが示した使用料は、定価四百円のコミックの場合、二百八十円。…このうち、八十円を著者に渡し、二百円を管理手数料

 とありますが、これでは当事者間協議で妥結できなかったわけですね。

 料率を高めに設定することで実質上レンタルを抑止しようとするという意図があるのなら、それなりにわかる話ですが、それにしても管理手数料の比率の高さには驚かされます。

 「公貸権料は販売補償料ではない」という日本図書館協会のスタンスは法解釈上も当然だと言われていますが、仮に「販売補償」という立場に立って、そして仮に公貸権料の財源を国庫で確保しても、上記のような事務局費の比率の高さを考えると、公貸権を作家の実質的な利益を生み出す仕組みにするのは、どうにも大変なことであるような気がしています。ですから、国庫財源の確保が容易ではない中での公貸権の主張は、つまるところレンタル・ブックと同様に「図書館での(無料)貸出/(無料)閲覧の抑制」が主たる目的であるということになるのかもしれません。「販売補償」を求めるという前提は「販売への妨害」があるという認識ですから、販売妨害行為(=図書館での購入→閲覧・貸出)を抑制することが自らの利益になるという判断もあるわけですね。

 ということで、作家さん達が実質的な公貸権料を得るという意味での経済権を求めてらっしゃるのなら、公貸権が図書館を抑制するようなことにはならない_筈_ですが、そうじゃないのならそうじゃないわけで、作家さん達の意識と著作権法をめぐる認識のありようは実際のところどの辺りなのでしょうね。問題はそこなのでして、そういう意識で見てみると、今回の「声明」は何をどこまでどう考えているのかがよくわからないものになっていますね。あるいはひょっとすると法解釈とシミュレーションがよく認識できていないだけなのかもしれません。

 と、ここまで考えてきて、やっと図書館系ブログのみなさんがプンプンしてらっしゃるのがわかってきました。おおそうか、この「声明」は、図書館を憂えるようなことを言いながら、実は図書館の基本的な機能である資料整備の抑制が主たる目的だったのか! … って、ほんと一体どうなってんでしょうね?

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2005年8月10日

硝子の天井

 ふと気がつくとえらく間遠な投稿になってしまっています。頭が他所の方向へむいておりました。とりあえず目についた記事から。

図書館から本が姿を消す--米大学が進めるデジタル化の現状
Stefanie Olsen (CNET News.com) 2005/08/08 21:19

 技術的な面に限って言えば「デジタル図書館」というものが展開可能であるのは既に分かっています。少なくとも単純に「本」のコンテンツをデジタル化してネットを通じてアクセスできるようにする、という「デジタル図書館」の概念の前段としての「(私的に、実験的に)デジタル化する」までは。老生ですら、本を解体し両面読み込み可能なADF付きのスキャナーを使ってPDF化しているくらいですから。

 そして、そうした段階にある「デジタル図書館」がどうしても離陸できないこと……つまり著作権が「硝子の天井」になっていることも、よく知られています。ところが、上記記事は、こうした「著作権という硝子の天井」という現状の「デジタル図書館」にとっての出発点を、記事の締めの部分にいきなり持ってきて

 しかし、図書館のデジタル化に向けた最大の課題は、出版者や知的財産権保有者らが抱いている懸念だ。著作権法は長年の間に変化を遂げており、また米国以外の国々では著作権法の内容が異なる可能性もある。よって、書籍デジタル化計画の多くは、その実施にあたり、各作品の著作権の調査や権利者の許可の取得に多くの時間を費やさなくてはならない。

と結論として述べて終わっています。この記事の意図するところは一体何なのでしょうか。どうも老生には呑み込みにくい記事です。

 呑み込みにくいと言えば、工学系の大学で図書館のデジタル化が進んでいるという記述の後に添えられた次の指摘もそうです。

たとえば、シェークスピアやヘミングウェイの著書などは棚に並べておく必要があるだろう。しかし、Unixカーネルの開発に関する専門書を棚に並べておく必要性はそれほど高くない。

 なんとなく通りがいい説明であるのは認識できますが、ほんとにそうでしょうか? 「デジタル図書館」が普及する、成立するということは、ユーザー/読者が「シェークスピアをデジタル図書で読むっておかしいことですか?」といった状況になることなのだろうと思えるのですが。

 老生は理工系の人間ではないので、老生がPDF化に励んでいる図書も当然人文系・社会科学系が中心であり、一部小説も含みます。。。なにしろ置き場所に困っていますから、家人の批難の目を避けるにはデジタル化するしかないのですよ。とほほ。

 こうしたことはインターネットと似ているのかもしれません。かつてインターネットは、特定の学術研究機関などに所属する理工系人間が主として使う、(言葉は悪いですが)「おもちゃ」でした。それが人文科・社会学系の研究者達さらには一般にも広がってきてインターネットはインターネットとなったのだと思います。ということは、上記の記事の指し示すところは、「デジタル図書館」も社会的にはまだまだ「おもちゃ」の段階なのだ、ということなのでしょうか。

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2005年6月25日

健さんの朗読CD

 ↓いいお話しなんですけど、業界の暗黙知的には「ん?」なお話し(今日の読売新聞掲載)。

 健さんが自作エッセー朗読、CDに…盲学校などへ寄贈

 記事タイトル通りの内容(健さん=高倉健さん)なんですが、本文では(公共)図書館も出て来ていて、↓こういう記述になっています。

全国から「目の不自由な人のために、点字にしたり、朗読の録音をしたりしていいか」との問い合わせが相次いだことから、CD化を考案。

高倉さんのもとに点字化などの許可を求めてきたのは、図書館の担当者ら。「できたら健さん自身の声で聴いてみたい」という意見も多く添えられていたことから、高倉さんは自らの朗読をCDにすることを決意。

 これはどうも、「ありえない」か、「普通そうはならない」お話しです。

 まず、資料の点字化(点字による複製)については、どこが複製を行うにしても、著作権者の許諾は必要とされません。これは、点字による複製がされても、著者の経済権が侵されることはまずないからということですね。ですから、その許諾申請が「相次ぐ」というのがおかしなお話しです。

 次に、点字図書館や公共図書館で作成する音声図書(朗読図書)の「朗読」というのは、出来る限り抑揚をさけた機械的で正確な読みを心がけているものなのですね。これは、この場合の「朗読」というのが、視覚障害者の目の代わりを果たすのであって、読み手の情感を代行するものではないという発想でいるからです。本の活字が、それ自体は整然と無個性に並んでいるのと同じように、その文字を無個性に音声化するのが目的の「朗読」なのですよね。そこからは普通、著者自身の声で聞きたいという発想は出てこない筈。(もちろん、ファンであればそう願う…こともある…のは自然ですが)

 そして著作権法の規定から、公共図書館が音声化を行う場合著者の許諾が必要となるわけですが、これが最近までは一括許諾の途がなく(今でも部分的な一括許諾までですが)個々に許諾を求めることになっていて、その手続きの煩雑さや、音声化(複製)許諾を無料で要請するすることになるのが実情になっていることや、上記のように無個性な読み方であることから、作家の方々からの反発が大きい事案として続いてきています。老生的には、大体数年おきに作家のどなたかが、音声化許諾についての疑問や不満を新聞エッセイなどに書いおられるのを拝見してきているような記憶があります。

 一方、点字図書館など福祉施設が行う音声化については、著者の許諾を求める必要がありません。ですから、記事文中の「図書館の担当者(ら)」というのは、許諾を求める必要がある「公共図書館員(ら)」ということになるのですが、「ら」を除いた部分に限っていうと、、、

 予算があるとも思えないのに、著者からの無視や反発にびくびくしている公共図書館の担当者が、天下の健さんに「ご自分のお声で聞かせてください(ノーギャラで)」などと、おっそろしいことを、無邪気に書き添えるとは、ましてやそういう担当者が多数いるとは、まず思えないのです。

 「いいお話し」とは言え、川崎村のサーバ・ダウン記事と同じく、どっかで何か(の情報)が歪んでいるか、抜けているかしているとしか思えない記事ですね。高倉健さんが傷つくわけでもないので、いいのですけれどもね。

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