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書籍・雑誌

2006年1月18日

「謎のプリンス」の謎

 今年になってからの予約票で気付いたのですが、『ハリー・ポッター』第6作"Harry Potter and the Half-Blood Prince"  の邦題が『ハリー・ポッターと謎のプリンス』で確定したようです。最初は『ハリー・ポッターと混血のプリンス』として静山社のHPに掲載されていたので「またもめるだろうな」と思っていたのですが、流石に今度は「事前に対処」したようです。これは「事前対処(自主検閲?)」の是非の問題と言うより、基本的に静山社さんがイノセントすぎたのだろうという気が老生はしています。この点は評価がわかれるところでしょうが。

 それはともかく、静山社さんのHPには『謎のプリンス』のアナウンスが、「発売日まであと、○日と○時間○分○秒」というカウントダウンで示されているのですが、最初からずっと長い間、結局のところ「○月○日発売」なのかがどこにも示されていませんでした。

 老生が「ハリ・ポタ」ファンで発売を心底待ち望んでいるなら、こんなのいやですけどね。やっぱりそういう大事な日は、カレンダーや予定表にグリグリと印をつけたいじゃないですか。(老生の選択肢には「シールを貼る」というのはありませんので。)

 静山社さんとしてはそれが面白いと思っていたのでしょうし、他人様の楽しみに水を差すのも野暮というモノでしょうけれど、どうも老生の感性からすると、静山社さんの感性が謎であります。(最近になって確認したところでは、「2006年5月17日水曜日、あなたは16歳のハリーに再会する!」と控えめに示されるようになっていました。やはり「だから結局いつなの?」というお尋ねが多かったのでしょう(-_-;)

2005年8月10日

硝子の天井

 ふと気がつくとえらく間遠な投稿になってしまっています。頭が他所の方向へむいておりました。とりあえず目についた記事から。

図書館から本が姿を消す--米大学が進めるデジタル化の現状
Stefanie Olsen (CNET News.com) 2005/08/08 21:19

 技術的な面に限って言えば「デジタル図書館」というものが展開可能であるのは既に分かっています。少なくとも単純に「本」のコンテンツをデジタル化してネットを通じてアクセスできるようにする、という「デジタル図書館」の概念の前段としての「(私的に、実験的に)デジタル化する」までは。老生ですら、本を解体し両面読み込み可能なADF付きのスキャナーを使ってPDF化しているくらいですから。

 そして、そうした段階にある「デジタル図書館」がどうしても離陸できないこと……つまり著作権が「硝子の天井」になっていることも、よく知られています。ところが、上記記事は、こうした「著作権という硝子の天井」という現状の「デジタル図書館」にとっての出発点を、記事の締めの部分にいきなり持ってきて

 しかし、図書館のデジタル化に向けた最大の課題は、出版者や知的財産権保有者らが抱いている懸念だ。著作権法は長年の間に変化を遂げており、また米国以外の国々では著作権法の内容が異なる可能性もある。よって、書籍デジタル化計画の多くは、その実施にあたり、各作品の著作権の調査や権利者の許可の取得に多くの時間を費やさなくてはならない。

と結論として述べて終わっています。この記事の意図するところは一体何なのでしょうか。どうも老生には呑み込みにくい記事です。

 呑み込みにくいと言えば、工学系の大学で図書館のデジタル化が進んでいるという記述の後に添えられた次の指摘もそうです。

たとえば、シェークスピアやヘミングウェイの著書などは棚に並べておく必要があるだろう。しかし、Unixカーネルの開発に関する専門書を棚に並べておく必要性はそれほど高くない。

 なんとなく通りがいい説明であるのは認識できますが、ほんとにそうでしょうか? 「デジタル図書館」が普及する、成立するということは、ユーザー/読者が「シェークスピアをデジタル図書で読むっておかしいことですか?」といった状況になることなのだろうと思えるのですが。

 老生は理工系の人間ではないので、老生がPDF化に励んでいる図書も当然人文系・社会科学系が中心であり、一部小説も含みます。。。なにしろ置き場所に困っていますから、家人の批難の目を避けるにはデジタル化するしかないのですよ。とほほ。

 こうしたことはインターネットと似ているのかもしれません。かつてインターネットは、特定の学術研究機関などに所属する理工系人間が主として使う、(言葉は悪いですが)「おもちゃ」でした。それが人文科・社会学系の研究者達さらには一般にも広がってきてインターネットはインターネットとなったのだと思います。ということは、上記の記事の指し示すところは、「デジタル図書館」も社会的にはまだまだ「おもちゃ」の段階なのだ、ということなのでしょうか。

2005年5月25日

こらむで『ちびくろさんぼ』

 「図書館雑誌」今月号(2005年5月号)の「こらむ・図書館の自由」が瑞雲舎版『ちびくろさんぼ』の出版(復刻)に触れていました。(オンラインではここで読むことができます)

 執筆者の井上靖代さんは、1988年の岩波版などの絶版の後、図書館の現場で『ちびくろさんぼ』/『ちびくろサンボ』はどのように検証されてきたのかと問いかけ、次のようにまとめています。

黒人差別本だったと単純に言い切れるような事例ではない。図書館は何のために,誰のために存在し,本を提供しているのかを問われた本なのである。終った事例ではなく,これから図書館に関わっていこうとする若い世代や子どもへ本を手渡そうとしているすべての人びとが再考すべき「ちびくろさんぼ」復刊である。(強調は引用者による)

 たしかに、 「黒人差別本だった」と言うのと同様「黒人差別本ではなかった」と言っても、それだけでは何も始まらないし何も終わらない問題なのだと老生も思います。正直なところを言えば、この問題は「自分的には既に終わっている」と思ってもいたのですが、もう少し自分のためのメモをとってみようと思い始めています。

2005年5月22日

出版総売上復調 7年振り

 2004年の出版界の総売上が前年比1.3%増と、1997年以来続いていた前年割れから復調したようです。(『出版年鑑2005』の速報版としての「出版ニュース」2005年5月中下旬合併号記事「日本の出版統計」より)

 復調とは言え、書籍が5.9%増、雑誌が2%減と雑誌は下げ止まっていないことや、書籍も返品率が98年の40%から漸減して2004年でやっと37.3%になっているものの未だに高すぎる値であること、そして出版点数の増加と平均単価の下落からは既に指摘されている「金融策としての自転車操業的な出版」が相変わらず続いていることが推測されることなど、まだまだ不安要素が大きいように思われます。

 このメッセージを用意しながら、末廣恒夫さんのCopy & Copyright Diaryをチェックすると、この出版点数の問題をとりあげておられましたね(5月20日「7万点は多すぎるか、多すぎないか」)。そこで末廣さんがとりあげておられるような「出せる自由」(ポット出版の沢辺さんのご意見)はたしかに大事ですが、とても「戦線が伸びきった」状態とでも言いますか決して余力のある出版点数の多さではないように老生には見えますので、まだまだ心配が残りますが、それでもとりあえず売上復調は歓迎すべきところです。

 公共図書館によるいわゆる「複本問題」については、日本書籍出版協会と日本図書館協会による協同調査「公立図書館貸出実態調査 2003」(報告書[PDFファイル])によって、<公共図書館が貸出重視・予約重視によって、ベストセラーばかり、何百冊もの複本を購入して売上を疎外している一方で、専門書の図書館での購入がないがしろにされている>という仮説が否定されているはずなのですが、この報告書で「図書館提供率」という統計処理的には無意味な係数が考案されそれが新聞記事の見出しに踊るなど、報告の内容が逆の印象でとらえられている傾向もあります。

 思い込みではなく、実態に即した認識を基にして、「図書館のため」でも、「出版界のため」でもなく、「読者のため」に「なに」を「どこまで」「どうする」のがいいのかという建設的な論議が出来て行ければよいですね。

2005年5月 9日

<懐かしき『ちびくろさんぼ』>考

 「懐かしー」のオンパレードにただ驚いているだけでも仕方がないですね。自分の整理の意味で『ちびくろさんぼ』をめぐる論議についての参考図書をあげてみます。

●径書房編集部編『ちびくろさんぼ絶版を考える』(径書房 1990)

 これはbk1では「現在お取り扱いができません」になってますが、径書房のHPではちゃんと出て来ますね。まだ入手可能のようです。

 1988年末から1989年初めにかけて岩波版をはじめとした種々の『ちびくろさんぼ』が絶版になっていった中で、擁護派と批判派両方の立場からの発言を集めています。巻頭に『ちびくろさんぼ』のオリジナルの縮小版を載せたのが、日本でのオリジナル全頁紹介の初めですね。

●エリザベス・ヘイ著『さよならサンボ:「ちびくろサンボの物語」とヘレン・バナマン」(平凡社 1993 )※現在入手不可

 現在入手不可のものをあえて挙げています。というのも、原著作者のヘレン・バナーマンについての詳しい伝記的なことがらはこれにしか出てこないからです。著者はヘレンさんの子ども達に直接インタビューしている唯一の「公認」といってもいい伝記作者ですのでね。図書館で探してください。ただ次に紹介する、この本より前に書かれた伝記とは『さんぼ』評価を大きく変えて「さよならサンボ」と言っています。
 因みに、この作品は英語で書かれているのですが日本訳のみ出版されています。最初は、次にあげるものの邦訳が出るということだったのが、著者の意向からでしょうか、こういう形になっています。

 因みに、Helen Bannerman の日本語表記ですけど、岩波版が「バンナーマン」としたのでそれで耳になじんでしまってますけど、原綴を見れば、「バナーマン」と「バナマン」の間くらいかなって感じじゃないでしょうか。さらに横道にそれちゃいますけど、『ドリトル先生』も原綴は Dolittle(Do + Little)で「ドゥーリトル」なんですよね。更に横道ですが、同じお名前で1942年に東京を爆撃をしたアメリカ空軍の中佐がいてこの爆撃は人名をとって「ドーリットル爆撃隊」と近代日本史では表記されていますね。

●Elizabeth Hay "Sambo Sahib" (Paul Harris, 1981) ISBN:090450591

 英文なんですが、同じ著者の『さよならサンボ』との比較の意味もあって敢えて挙げてみました。これは全面的にヘレンさんと『ちびくろさんぼ』擁護の立場で書かれています。<ヘレン・バナーマンは善意の人で、『ちびくろさんぼ』批判は誤解の産物なのだ>、という主張ですね。しばらく入手不可状態だったのが最近米アマゾンで検索したら出て来ました。上記のように著者のサンボ評価が大きく変わったので絶版状況になっているのかと思っていたのですが、どうなのかな。これは『絶版を考える』では『サンボ閣下』として紹介されています。"Sahib"ってのはインドの言葉で、英語で言えば"Master"にあたるらしいので、『サンボ閣下』ってかなりな雰囲気訳ですね。(……「サンボ・マスター」っていうロック・バンドが今日本で活動中ですが、これはまったく無関係でしょう、多分。)

灘本昌久著『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ』(径書房 1999)

 ヘイさんの『さよならサンボ』の向こうをはったタイトルで、しかも表紙の構図がほとんど同じということで実に挑戦的ですが、表紙の構図は単に両方ともオリジナルサンボの口絵を使っただけということで偶然のようです。著者の主張はタイトルが語っていますが、この方は差別問題業界の方(ただし異端派)なので、絵本の評論というよりむしろ差別問題の本という趣になっています。
 そして、この本と連動してオリジナルの『ちびくろさんぼ』の初めてのそして唯一の日本語版が同じ著者の翻訳で出版され、同時に、オリジナルの復刻(英文)も同じく径書房から出版されていますので以下に挙げておきます。英文復刻版の方は、1899年のイギリス初版の忠実な復刻で、これは現在英米で流通している『ちびくろさんぼ』が本文とイラストがオリジナル通りでも表紙が違っていることや判型が少し違っていることからすると、貴重です。その貴重さに対して税込¥3,675を払うかどうかはそれぞれですけれどね。

●ヘレン・バナーマンさく・え/なだもと まさひさやく『ちびくろさんぼのおはなし』(径書房 1999)

●Helen Bannerman "The Story of Little Black Sambo"(径書房 1999)

 最後に、『ちびくろさんぼ』の評論ではないのですが、特にアメリカ合衆国での『ちびくろさんぼ』批判の背景となった Sambo という「黒人」に対する否定的イメージの歴史について述べた本があるので紹介しておきます。

●ジョゼフ・ボスキン著/斎藤省三訳『サンボ:アメリカの人種偏見と黒人差別』(明石書店 2004)

 この邦題の副書名はある種の意訳になっていて重苦しい感じがするのですが、原書名は"Sambo: The Rise and Demise of an American Jester"ということで、アフリカ系アメリカ人への否定的なイメージである「サンボ・イメージ」の消長を記録したむしろ学術的な研究書です(といってもあまり堅苦しくはない)。
 この本で疑問があるのは、訳者の後書きで「サンボ・イメージ」の問題から『ちびくろさんぼ』についても長い批判を展開しているのですが、ボスキンの本文では、まだ擁護派だった時代のヘイさんの"Sambo Sahib"を引用して、『ちびくろさんぼ』批判は誤解だった、『ちびくろさんぼ』という作品は「サンボ・イメージ」とは無縁だったと書いていることなのですね。

 「たかが絵本のことで、重苦しい本をなんで読まなきゃならんのだ」と言われるならそうですけどね。まぁ、それぞれ、それなりに面白い(興味深い)ですよ。

2005年5月 6日

復刻(海賊版)『ちびくろさんぼ』は、、、

 3月に話題となり4月に瑞雲舎から復刻された旧岩波版『ちびくろさんぼ』についてのコメントを連休中に渡り歩いてみて「懐かしー」のオンパレードにいささかびっくり。過半数はそういう反応だろうとは思っていたけれど、九分九厘そうだとまでは。。。

 もちろん、個々人の「懐かしさ」に文句をつける筋合いではないのだし、1996年にアフリカ系アメリカ人向けの絵本として『さんぼ』をリメイクしたジュリアス・レスター(この人もかなり「意識的な」アフリカ系アメリカ人)だって子どもの頃に読んだ懐かしさを語って「だって、面白かったんだよ」ってなことをネットで書いていた。

 ただ口承民話から創作するような場合はともかく、ちゃんとオリジナルの絵本(テキスト+イラスト)として創作された絵本が、イラストを差し替えて何十種類もの版(つまり「海賊版」とでもいいますか)で流通してしまっていたというようなお話しは、ほとんどのブログで触れられてすらいないので、いささか驚いたという次第。この本を差別だと思うも思わないも、海賊版状況などのこの本の来歴とはまったく無関係には触れられないと思うんですけれど。。。

 数少ない例外が DORAの図書館日報さん(3月21日他)と本棚の魔女の、魔法の本棚さん(4月27日)くらいでしょうか。(他にもあるのでしょうが、なかなか見切れていない。そして、えらくタイミングを失したトラックバックで申し訳ないです。)

 ところで、この岩波版を復刻した瑞雲舎版って、原作はフランク・ドビアスのイラスト作品ですけど、そのマクミラン版オリジナルの表紙をみただけでも日本版と大きく違うのですよね。考えてみれば当然なので、岩波は日本風の縦書き絵本に仕立てたけれど、オリジナルの英語の絵本はそうじゃなかったでしょう。つまり横のものを縦にするということでかなり原作のイラストを切り貼りしている筈なのでして、いくら著作権の期限が切れていたのだとしても、「同一性保持権」的にはかわいそうなお話になっちゃってます。

 つまり、この絵本、ヘレン・バナーマンさんのオリジナルからすると、海賊版の上塗り状態なのですね。

1)1927 マクミラン社が、イラストをドビアス作に付け替えた。
2)1953 岩波がドビアスのイラストを切り貼りして絵本の構成として改変した。
3)2005 瑞雲舎が岩波に断りもなく岩波版をそのまま復刻した。(2の改変作業に岩波の編集著作権を認めるとしても出版後50年の2003年で著作権は期限切れですが。)

 褒められるにせよけなされるにせよ、自分が書いたオリジナル作品として評価されないのって、バナーマンさんもかわいそうですよね。

 因みに、老生自身は『ちびくろさんぼ』の幼児記憶がまったくありません。レイさんの「おさるのジョージ」シリーズとか、木下順二さんの『かにむかし』とかは鮮明な記憶があって「懐かしー」のですが、、、

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