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2006年11月 6日

関ヶ原合戦でした

 昨日の「功名が辻」、関ヶ原合戦本番でした。一豊さんの「功名」(槍働き)がないことは史実として動かしようがありませんので、 あのエピソードはどう描かれる?このエピソードは?というところが今回の山でしたが、 手練れの大石静さんですから合戦の流れを手堅くまとめておられました。

 ただ石田三成さんを「義は我にあり」という名分に走った観念論者として描くのであれば、 彼の麾下にあって軍事専門家としての本分をつくすことで己を活かした島左近さんや蒲生郷舎さんを出すという手もあったのになぁとは思いますが、 時間の制約もあってそのあたりは島津維新入道さんとの確執で代表させたという形ですね。もっとも、あの描写では維新入道義弘さんが、 自分の提案を否定され、メンツをつぶされたとすねてしまった田舎大名という趣になってしまったのが少し残念。 60余万石の大名であれば2万近い軍勢を率いているのが通常の軍役*であるところを総勢わずか1500で島津勢がそこにいたというのが既にドラマなのですが。 そしてその1500余名が80余名となって薩摩に帰り着くことになる、前に向かっての退却劇、見せてほしかったです。しくしく。

* これもほんとはちょっと怪しいところがあるのですけど、 旧陸軍参謀本部が日本の戦史を研究した際にこの時代の動員兵力の算定基準を1万石あたり300人としたのが、その後ずっと「お約束」 になっています。だから20万石の福島正則は6000の兵力、5万石の大谷吉継は1500、 6万9000石の山内一豊さんは約2000という風に言われているのですけれど、 そもそも各大名の知行の正確な石高自体がよくわかっていないのでこれは「まぁ、とりあえず、そういうことにして話をすすめようよ」 というほどのことですね。

 というわけで、関ヶ原の、と言うより小山会議での言動の恩賞として一豊さんが土佐一国を預かることになるわけですが、 こっから先土佐へ入って統治するまで、重苦しい話になっていきます。

 

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