健さんの朗読CD
↓いいお話しなんですけど、業界の暗黙知的には「ん?」なお話し(今日の読売新聞掲載)。
記事タイトル通りの内容(健さん=高倉健さん)なんですが、本文では(公共)図書館も出て来ていて、↓こういう記述になっています。
全国から「目の不自由な人のために、点字にしたり、朗読の録音をしたりしていいか」との問い合わせが相次いだことから、CD化を考案。
高倉さんのもとに点字化などの許可を求めてきたのは、図書館の担当者ら。「できたら健さん自身の声で聴いてみたい」という意見も多く添えられていたことから、高倉さんは自らの朗読をCDにすることを決意。
これはどうも、「ありえない」か、「普通そうはならない」お話しです。
まず、資料の点字化(点字による複製)については、どこが複製を行うにしても、著作権者の許諾は必要とされません。これは、点字による複製がされても、著者の経済権が侵されることはまずないからということですね。ですから、その許諾申請が「相次ぐ」というのがおかしなお話しです。
次に、点字図書館や公共図書館で作成する音声図書(朗読図書)の「朗読」というのは、出来る限り抑揚をさけた機械的で正確な読みを心がけているものなのですね。これは、この場合の「朗読」というのが、視覚障害者の目の代わりを果たすのであって、読み手の情感を代行するものではないという発想でいるからです。本の活字が、それ自体は整然と無個性に並んでいるのと同じように、その文字を無個性に音声化するのが目的の「朗読」なのですよね。そこからは普通、著者自身の声で聞きたいという発想は出てこない筈。(もちろん、ファンであればそう願う…こともある…のは自然ですが)
そして著作権法の規定から、公共図書館が音声化を行う場合著者の許諾が必要となるわけですが、これが最近までは一括許諾の途がなく(今でも部分的な一括許諾までですが)個々に許諾を求めることになっていて、その手続きの煩雑さや、音声化(複製)許諾を無料で要請するすることになるのが実情になっていることや、上記のように無個性な読み方であることから、作家の方々からの反発が大きい事案として続いてきています。老生的には、大体数年おきに作家のどなたかが、音声化許諾についての疑問や不満を新聞エッセイなどに書いおられるのを拝見してきているような記憶があります。
一方、点字図書館など福祉施設が行う音声化については、著者の許諾を求める必要がありません。ですから、記事文中の「図書館の担当者(ら)」というのは、許諾を求める必要がある「公共図書館員(ら)」ということになるのですが、「ら」を除いた部分に限っていうと、、、
予算があるとも思えないのに、著者からの無視や反発にびくびくしている公共図書館の担当者が、天下の健さんに「ご自分のお声で聞かせてください(ノーギャラで)」などと、おっそろしいことを、無邪気に書き添えるとは、ましてやそういう担当者が多数いるとは、まず思えないのです。
「いいお話し」とは言え、川崎村のサーバ・ダウン記事と同じく、どっかで何か(の情報)が歪んでいるか、抜けているかしているとしか思えない記事ですね。高倉健さんが傷つくわけでもないので、いいのですけれどもね。
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