暗黙知としての図書館業務
川崎村立図書館のサーバ・ダウンの新聞記事について、老生が他人様とまったく違う読み方をしていたということが自分自身の問題として興味深かったので、先週ずっと頭の隅においていました。
結局あまり形になる答えは見つからず、老生は自分自身にとって「ごく自然な解釈」をしていたと思うほかはありません。「暗黙知と社会知」と言う場合の「暗黙知」ということになるのでしょうか、老生は特に「これはどういうこと?」という疑問を持って「こういうことか?」という解釈をしたわけではなく、「何故そう考えたのですか?」と聞かれても「いや、だって普通そうでしょ」と答えるほかない感覚でいたのが、他人様とは違っていたようです。
老生自身や同じ職場の同僚、異なる自治体の公共図書館で働く知人の間では、「貸出」と「レファレンス」の違いをあまり意識していません。もちろん作業として見れば違いますが、機能としてみれば両者はシームレスに繋がっている同じ事(人と資料をむすびつける働き)の別の側面だという感覚が強いのです。
ですから、公共図書館にかかわる記事で「図書館の中心機能である図書の貸し出し、返却、リクエストなどのサービスができなくなった。」ことから「すべてのサービスをおうけできません。」と掲示を出したと読んでも、自分の暗黙知に引き寄せて「閲覧をしている以上、当然、資料案内・レファレンスはしている」と無意識に思っていたのだと思います。これがもし大学図書館など他の館種や海外の図書館のことなど、自分の暗黙知を働かせるのに躊躇する対象なら老生の反応は違っていたはずです。
老生の知る限りでは、日本の公共図書館で「貸出しかしない」図書館というのは普通ありません。小さな分室などになると蔵書の貧弱さは覆うべくもないので、「レファレンス」を看板にあげるのははばかるということはあるでしょうが、それでも資料の相談は受けるだろうし、中央図書館などへの取次という形でのレファレンスも受けるのが普通の形だと思います。
こうしたことは、「暗黙」知であるだけに自分自身が意識化していませんでしたし、ましてや違う環境にある方にとっては報告されない限りは想定できないものであったということなのでしょう。なるほど暗黙知は社会知に変換する必要があるのだなと改めて感じ入った次第です。老生自身が意識していなかった暗黙知に気付くきっかけをつくってくださったG.C.W.氏に感謝いたします。
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