好きだ好きだと言いながら、どうして著者をいじめるのだろうか?
と思ってしまうのが、もうすぐ発売になる『ちびくろさんぼ 3』
http://www.zuiunsya.com/n-book.html
この出版のニュースを聞いた時には唖然としてしまったのだけれど、ヘレン・バナマン Helen Bannerman* が描いた10冊の絵本の内、サンボという名の少年が出てくるのは2冊だけで、これは既に岩波版で翻訳・出版され、上記「3」の版元の瑞雲舎から『ちびくろ・さんぼ』『ちびくろ・さんぼ2』として復刻されてもいる。(ただし、岩波版『ちびくろ・さんぼ』はテキストはオリジナルだがイラストはアメリカで別人のものに差し替えられた異版。「2」は、テキストはオリジナルだが、イラストは前作のアメリカでの異版のイラストに似せて日本で作られた模倣版。)
オリジナルのテキストとイラストの翻訳は、径書房からのみ出版。
http://www.komichi.co.jp/bd/4-7705-0173-0.html
* 慣習的には「ヘレン・バンナーマン」で流通しているのだけれど、老生としては気持ち悪いので「バナマン」か、せいぜい「バナーマン」としか書けない。
で、「ちびくろ・さんぼ 3」なのだけれど、これの原作は、存在しない。版元のサイトも含めて、この本の書誌事項として現在ネット上で検索できる範囲では、「ヘレン・バンナーマン」の「原作」とあるもの、「原案」とあるもの、「ヘレン・バンナーマン」の表記が一切ないものの3種類があり、原作の存在しない作品を出版するこの企画の混乱ぶりを示している。
因みに、既刊(既訳)の『サンボ』の原題は、"The Story of Little Black Sambo"(1899)、 "The Story of Sambo and the Twins"(1936)。
バナマンの他の絵本作品の中では、肌が黒いキャラクターが出てくるものがあと4冊あるが、それぞれの主人公の内3人は女の子で、唯一の男の子の主人公の名前もサンボではない。発表順に挙げると、"The Story of Little Black Mingo"(1901)、"The Story of Little Black Quibba"(1902)、"The Story of Little Black Quasha"(1908)、"The Story of Little Black Bobtail"(1909)。
話の内容としても、上記版元サイトの紹介記事にあるストーリーはこの4作品と重ならない。唯一、小道具として「本」が出てくるのが "The Story of Little Black Quasha" だが、ストーリー展開はまったく異なっているようだ。(「ようだ」としか書けないのは、「3」の全文をまだ見ていないからだけれども、オンラインで見ることができる簡単な紹介文の範囲でもまったく違う話だと思われる。)
瑞雲舎が岩波版を復刻したことは、支持はしないけれども、それなりに理屈は立っていたとは思う。少なくとも、読者にとって納得がいかない形で軒並み絶版になり、読者から復刻が「待望」されていたという状況はあったのだから。けれども、「3」は一体誰が待望したのだろうか? 60年ほど前に亡くなった著者の存在しない作品を、なぜ、誰が、「待望」するのだろうか?
著作権…と言っても、経済権の話ではなく人格権のお話として、随分と無惨な話だと思うほかない。
バナマンというのはつくづく不運な著者だなと思わざるをえないのは、彼女の創作したキャラが、特にアメリカ合衆国では、彼女の描いたイラストとしてではなく異版・海賊版の絵柄で大量に流通したという部分においてなのだが、アメリカではまだオリジナル版も流通していた。一方日本では、上記の径書房版が出るまで、アメリカ産を中心とした異版・海賊版しかなかったし、むしろその海賊版をオリジナルとして好んできた。これだけでも、バナマンに対しては随分と失礼な話だと思うのだが、そこへ持ってきて、今度は存在しない続々編が日本で登場してこようとしている。しかも、イラストは従前の2作品と同じ、アメリカでの海賊版を模したものだ。これは一体どういう文化状況なのだろうか? この出版企画のどこに、著者への Respect を見いだせるのだろうか。
この作品にとびつく読者がいるとすれば、彼/彼女はヘレン・バナマンが「好き」なのだろうか?
この存在しなかった作品を出版する瑞雲舎は、ヘレン・バナマンが「好き」なのだろうか?
老生には、彼らがバナマンをいじめているようにしか見えない。どうして、こんな侮辱行為を平気でできるのだろうか?
バナマンが、その作品故に「差別」の汚名をうけたことについては、いくつもの「不運」はあるにしても、近代化・脱植民地化という状況の中を生きた社会的存在としては引き受けなければならない道理があったとも思うし、その意味では同情しない。 1972年の時点で、イギリスのジャネット・ヒルがバナマンの "The Story of Little Black ~"諸作品に対して、"They has no place in multi-racial society"**と述べたのは、極めて正しい評言だったと老生も思う。
** Janet Hill, "Oh! Please Mr, Tiger", The Times Literary Supplement, Nov. 3, 1972.
これ↑は、人は、自分が述べたこと、書いたこと、行動したことと、その結果の一部について責任を負わねばならないと老生が考えるからだ。そして同様に、人は、自分が言わなかったこと、書かなかったこと、行動しなかったことについての責任を負わされてはならないのだ、とも考える。(「やるべきことをやらない責任」というのは、話がややこしくなるのでちょっと横へ置いておく) 自分のイラストではない多くの異版「さんぼ」について、ヘレン・バナマンは責任を負う必要がないのと同様に、テキストもキャラも自分のものではない作品に、自作の代表的なキャラの名前をつけられる理由はないのだ。
「ちびくろ・さんぼ3」の出版が異様なのは、正・続編の復刻を待望する声に応えた出版社が(復刻自体はある種のリスクをとっている行為でもあり、非難するつもりはない。。。ただし、復刻の元版が海賊版であったという点では支持はしないし批判もするが)、原著者の人格権を大きく踏みにじってまで続々編を創出していることだ。正続編の復刻は、たとえ海賊版であっても「私たちは(多くの人が)これが好きなんです」という点で、まだ「出版の志」として成り立つ余地があった。だが「3」は、捏造でしかない。
瑞雲舎ってのは、結局、ヘレン・バナマンとその作品を愛していたわけでもなく、ニッチな(他社が手を出すのをためらっている)分野にあえて手を出して儲けたかっただけだったのだね。。。もちろん、「金儲け主義」自体を批判しているわけではない。ただ著者へのRespectの欠如が、老生にはひどく無惨に思えるのだ。
因みに、ヘレン・バナマンは、生年月日:1862年2月25日、没年月日:1946年10月13日。
すみません、図書館員ですが、ウィキへリンクしときます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%9E%E3%83%B3
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